プロフィール

ご挨拶

こんにちは。
online相談室ひらり
カウンセラーの平井 あおいです。

看護師・保健師・看護教員・お寺の坊守・・・として過ごしてきた中で
本当に多くの方の相談を受けてきました。
心の病気から人生相談まで、悩みや抱える問題は百人百様。
そう言っても過言ではないくらいです。

ただ、仕事と家庭の両立ができず
非常にアンバランスであったことに
本当に大切な人を失ってしまう羽目になって
初めて気づきます。

罪悪感、悔恨、怒り、悲哀、恐怖
何よりも強力な自己否定感が

「もう死んだ方がいい」

と思うまでに自分自身を追い込み
これまでの人生のアンバランスさに気づいて
崩れそうでした。

時を経て
死ねなかった自分が生きていくことに何か意味を見出そうと
再び学ぶことを選択します。

数々のセミナーや講義に参加してようやく出会ったメソッド。
本当の気持ちに気づくために、自分自身を見つめるうち
少しづつ何かが「変わってきている」
そういう感覚を味わっていきました。

 ー人に良く見られたい
 ーできる人だと思われたい
 ー認められたい

「人のために役に立ちたい」という気持ちの強さの裏で
過去の経験によって傷ついた私を守ろうとして
強い承認欲求を満足させようと
潜在意識が必死になっていることに気づいたのです。

幼少時に、笑顔を取り上げられた恐怖と
空気を読んで対処しなければつぶれてしまいそうな孤独感
これらを払拭するために

とことん頑張りぬくこと
 ー絶対にこうしなきゃ
 ーこうあるべき
 ー人の見本にならないといけない
 ー無駄のない動きをしなきゃ・・・

がんじがらめのルールは
崩れ落ちそうな私自身を
とにかく引き上げようと動いてくれていた
この存在の中にある潜在意識のおかげ・・・

ただ、守られ方が幼いやり方であったばかりに
現実の空回りを引き起こしていた・・・

幼少期からこれまでの体験を掘り起こすことによってやっとそのことに気づき
少しずつ受け入れることで、ようやく解放されたのです。

両親との関係、幼少期の体験、社会に出てからの生活経験
「頑張る私」を作り上げてきたすべての事象は否定するものではなく

愛すべき大切な人生の歴史であると
そう考えられるようになりました。

肩ひじ張らずに、自分を大切にする。
その上で、以前の私と同じように悩みや問題を抱える方々を支えたい。
今では、心からそう思っています。

人生は紆余曲折。
本当に様々な経験してきました。

幼少期から現在に至るまでの長編プロフィール
「~Life History~」
よろしければ、ご覧ください。

・「笑い」を取り上げられた子どものころ
・自分をひた隠しにして過ごした小学校での日々
・お弁当を一人で食べる哀しさ
・私の何がいけないのだろう…思い悩んだ中学校での日々
・母の教訓 “人に頼らず自活せよ、ダイヤモンドは自分で買え”
・やりたいことの貫き方がまずかった、1度目の結婚
 ①キラキラしていた結婚当初
 ②自己中心的なふるまいが招いた危機
・心身の安寧を失うだけではすまなかった2度目の結婚
 ①静かな生活で“退化”していく身体
 ②大切な人助けられなかったことで追い詰められた心
・辛いことから逃げるという経験と罪悪感
 ①食べるための職探し
 ②怒鳴られる続ける恐怖
 ③「逃げた」解放感と罪悪感のせめぎ合い
・試練続きの中で見えてきた小さな変化
・自我との対峙が導いた穏やかな生活
・人の心に寄り添うということ

父方の祖父母にとって「初めての女の子の孫」であった私は、特に祖父に可愛がられていました。小学校1年生の担任だった先生の年賀状に、「笑うと大きく口を開けて銀歯がキラッと光るね」と書かれたりもして、よく泣いて、大きく口を開けてよく笑う活発な少女でした。

小学1年生だったある土曜日の夜、兄が父にお笑いコント番組を見せてほしいとお願いしたのです。普段は夜8時には寝るようにと厳しくしつけられていましたから、土曜の夜のお願いは特別でした。父は承諾はしたものの、条件を出しました。

「見てもいいが、声を出して笑ったらすぐにテレビを消す」

画面の中では、いつも通りの賑やかなコントが繰り広げられていました。必死で笑いをこらえながら見ていましたが、気づけば、耐え切れずに声を出して笑ってしまったのは私でした。

笑い声をあげたその瞬間、父が素早く立ち上がり、無言のままテレビのスイッチを切り、暗くなった画面…。

部屋が静まり返りました。 兄の鋭い視線が私に突き刺さります。兄にしてみれば、自分がお願いして得た楽しむ権利を奪われたのですから、睨みたくなるのも無理からぬことだったのでしょう。

ただ、私にとっては、笑うことで二人の怒りを同時に引き起こした一大事…。

「どうして笑ってしまったんだろう……」

後悔と恐怖で頭がいっぱいになりました。

その後、どうやって布団に入ったのかさえ思い出せません。

それだけではありません。強烈な緊張と不安によるものなのか、その出来事前後の記憶がどうしてもでてこないのです。

この一件を境に、面白いことを面白いと思ってはいけない、楽しんではいけない、とブレーキがかかるようになりました。

やらなければいけないことは一所懸命にやりましたし、「頑張った」という気持ちもあるのです。

ただ、「面白い」とか「楽しい」という気持ちは、これって「面白いのかな」「楽しいのかな」とまず心の中で自分自身に投げかけて、面白くも楽しくもないと思い込もうとしていたように思います。

父は出張で留守がちでしたが、家にいるときは毎晩のように晩酌していました。普段は寡黙ですが、アルコールが入ると怒りっぽいのです。

拳骨の後は壁を向いて正座させられ、本人は隣の部屋で寝てしまい、その制裁は長い時間解かれない…。怒られると蛇に睨まれたような恐ろしさで、心が凍りつくようでした。

父の前では笑うことが怖くなり、いつも顔色をうかがってビクビクしながら過ごしていました。
兄に嫌がらせをされても言葉を飲み込み、反抗することなく耐えていました。

テレビを見て笑ってしまった罪悪感…。
言うことを聞けない「ダメな子」…

そう思い込んで、自分の思いを口にするのをためらうようになっていきました。

笑うことが下手であっても、基本的には活発な子どもでした。よく走り回っており、ドッジボールが得意で、男子から「男女(おとこおんな)!」と呼ばれていました。

しかしながら、「男女」呼ばわりされることに心を痛めていました。実はジェンダーでいうところの「女の子らしい」ことが好きだったのです。何も感じていないかのようなふりをして、必要以上に男子と仲良くするなど、自分の本当の気持ちを表に出すことはありませんでした。出せなかったというのが正直なところです。

5年生になった頃、短距離走で初めて2位になることを経験します。活発で、これまで人に負けたことがなかった私には衝撃でした。

悔しい気持ちと嫉妬心を、たった1度、1位が取れなかったというだけで延々と持ち続ける…。この気持ちを人には言えない。それこそ「笑いとばす」ことなど思いつきもしない…。

感情を表すのが下手で、気持ちをひた隠しにする。失意をばねにするどころか、なかったことのようにふるまう・・・。こうしたことが積み重なり、気がつくと行動を起こす前はいつも不安で、自信も無いから消極的で受け身になっていたように思います。

小学6年生くらいから大々的に仲間ははずれにされるようになりました。

遠足で、一緒にお弁当を食べようとしてくれた唯一の友達を、ほかの友達が自分たちのグループに来るように大声で呼んだのです。

彼女はこちらを振り向きながらもそのグループの方に行ってしまいました。
引き止めることもできず、ただ茫然と座っていました。
悲しいとか悔しとか思ってしまったら、崩れそうな感じがしていました。

ぽつりと一人で食べたお弁当。何が入っていたのか、全部食べたのか、まるで覚えていません。

覚えているのは、「先生たちは見て見ぬふりをしてるな」と、悲しみを飲み込んだ、ということだけです。
学校でのこんな状況を親に話すこともなく、沈んだ気持ちで過ごした小学校生活でした。

いくつかの小学校がまとまって同じ中学校に上がるので、仲間外れは続きます。だんだんと受ける行為にも陰湿さが加わっていきました。

家庭科の時間、ミシンの際に折りたたんだ布を置いて席を離れます。戻ってきて布を持ち上げた瞬間に痛みが走りました。置いていた布の下側から上向きに針が刺してありました。周囲はみんな、素知らぬふりです。何事もなかったような顔で時間が過ぎるのを待ちました。

ある日、クラブ活動で訪れた、普段は使うことのない公立体育館のロッカー室。その壁一面に私の悪口が油性マジックで書かれてあるのを目の当たりにしました。公立の体育館ですから、一般の人も出入りする場所です。

「死ね」「どっか行け」…
ただ、ただ、涙が出ました。

どうして、こんな目に合うんだろう。何がいけないのだろう…。

いじめられる、仲間外れにされる…。これは、自分がそうされる種をまいている?でも、何の種?体育の先生にほめられたから?男子と仲良く話をしたから?

ぐるぐると考えても、結局答えは分かりません。
でも「私が悪いのだ」と罪悪感だけは強くなる…。

立ち向かうよりは、ただ耐えたほうがいい…。そう思って、自分を押し殺していました。心を能面のようにして過ごすしかなかったのです。

高校受験では、通いたかった高校は不合格。母親の方針で受験した私立高校の衛生看護科に進学しました。

「人に頼らず自活せよ。ダイヤモンドは自分で買え」

これは母の教訓です。この言葉を、機会あるごとに言われてきました

この言葉に込められていたのは、「お金は安定した職業で働いて稼ぐものであり、欲しいものは自分で手に入れる」というマインドです。母の人生から導き出されたものなのでしょう。

このマインドを強烈に植え付けられ、手に職をつけさせたいという母の目論見通りに、私は看護師を目指すことになりました。正直、「どうでもいい」と投げやりな気持ちでした。
何がやりたいのか、どうしたいのか、がわからなかったのです。

進学した高校で、学年の中での成績が上位ということがわかり、自分でも驚きました。
気持ちが上向いた私は、自主的に夏期講習などを受け、初めて勉強が面白いと思うようになります。

相変わらずクラスメートとは打ち解けない状況にはありましたが、成績が上がったことによって、先生たちには可愛がられるようになりました。

頑張れば権威ある人に認められる… 裏を返せば、頑張らなければ認めてもらえない…
これまでの「耐える人生」に「頑張る」ことが加わった高校時代でした。

就職して4年後に結婚しました。

結婚当初は、子どもはしばらく作らないことで合意し、同居していた義理の両親との関係も良好で活気のある日々を送っていました。


28歳で4年制の夜間大学に通うことになり、仕事も看護学校の専任教員として赴きます。
昼間は教員、夕方は学生、家に帰れば人の妻…とたくさんの役割を抱えながら充実した日々を送ります。
大学を卒業、大学院へ進学し、修了後は、当時の居住地から、飛行機で移動する必要がある地域に設立された看護系大学での職を得ました。

人生で一番キラキラしていたかもしれません。
夫も仕事をしていたので、単身赴任生活でした。
仕事も私生活も充実し、自分の進むべき道が準備され、前途は洋々。
すべての選択がうまくいき、勢いに乗っていると感じていました。

「いつも背筋が伸びて、肩で風を切って歩いてますね」そう言われて、なんだか誇らしい、よく頑張ってるな、そんな気分になっていました。

当時、夫へは、決定したことを事後報告して協力を仰いでいました。
彼は驚きを示しつつも受け入れてくれ、応援してくれている、と思っていました。

そして、それが大間違いであったことに気づいたのは、少し時間がたってからのことでした。

看護大学の教員として、学生のモデルにならなくてはいけない。自分がやりたいように進んでいく…。
当時の私には「看護教員としてのあるべき姿」の理想像があり、「頑張る」ことはよいことだとばかりに、遅くまで仕事をしても苦痛に感じていませんでした。

すべての進路の決定に、夫に相談し、意見を伺い…といった議論の余地を与えることがなく、見方によっては「自分勝手で自己中心的」な毎日を過ごしていたのです。

思えば、大学在学中から、夫には夕方の食事を一人で摂ってもらっていましたし、休みはレポートに明け暮れてゆっくり話をするどころではありませんでした。
単身赴任中は、月に一度は帰宅するものの、家についた途端に職場に戻る算段を考えたりして心ここにあらずだったのです。

この忙しい生活を「楽しい」とさえ思っていました。

なんとなく、夫の職場での人間関係に、ひずみがあるらしきことに気づいてはいました。
しかし、何とかやっていけるだろうという甘い目論見で、どこまでも自分の想いが先走っていたことは否めません。

ただでさえ物理的距離のある関係性です。
赴任先から電話で話を聞く程度で済ませてしまい、もっと気持ちに寄り添ってしかるべきところを、それとはほど遠い対応をしてしまっていたのです。

晩秋の、ある冷え込んだ夜中に電話がかかってきました。

「今、〇〇駅にいる。迎えに来てくれなければ電車に飛び込む」

身体が一気に冷えました。こんなにも夫を追い詰めていたのだと、外で頑張ることを免罪符にして、夫の寂しさに気づかないふりをし、夫のやさしさを踏みにじっていたのだと、認識せざるを得ませんでした。

結果的に、飛び込むことはありませんでしたが、生きた心地がしませんでした。

1か月後には退職して夫の元に戻りました。帰ってみれば、家の中が荒れているのは当然で、ほかの女性を自宅に連れ込んでいた形跡もありました。

それでも、その要因は自ら作ったこと、という自覚と反省から、関係を立て直そうと努力しました。夫もそれに応じようとしてくれてはいたのです。

しかし、4か月後、「本当は子どもが欲しかった。遠くに行ってほしくなかった。あなたといると死にたい気持ちになる」と告げられます。

がむしゃらに頑張っていたつもりが、自己中心的なふるまいになっていた…。
何のために?
自分が認められたいがために。

大切な家族の話に耳を傾けず、自分のことしか見えていなかった…。
偏った頑張りで空回り…。
一緒にいられないと言われるのは、当然のことだと思いました。

①静かな生活で“退化”していく身体

新たな職場で出会いがあり、再婚しました。

二度目はお寺に嫁ぐことになり、これを機に退職して大学教員としての道を退きました。
住職と大学教員という二足草鞋の夫を支えるべく、お寺の留守を預かることになったのです。

一度目の結婚の幕引きが鮮明に頭に残っていましたから、今度は相手を支える側に徹しようと決意していました。

大学に出勤していく夫を送り出した後は、いつも一人。
夫は帰りも遅く、義理の両親は別棟で生活しています。

その両親、特に舅の人柄のせいか、よほどのことがない限り檀家も訪ねてはきません。
舅は気難しく、姑は夫の継母で関係が悪いせいか「我、関せず」といった様子で、用事がない限り接することがありませんでした。

「人と会話する」ことが極端に減りました。
朝、夫と話す以外に一言も発しない日もあり、以前とは180度ひっくり返ったような生活でした。

「夫が不在の時は外出せず、留守を守るように」と舅に言い渡され、夫と一緒でなければ外出もままならない…。
もてあます時間をやりくりするためにインターネット三昧になり、次第に家の中にモノが増えていきました。

身体の変化も顕著に出てきました。
あまりにも身体を動かす時間が短く、座る時間が長いために、股関節、膝の順に痛みが生じ、何もないところで躓くようになっていきました。
庭の掃除中に、草を引いただけで肘に激痛が走り、「上腕骨外側上顆炎(じょうわんこつがいそくじょうかえん:テニス肘)」と診断され、ブロック注射をする羽目になります。

口の中にも違和感がありました。
「リンゴをかじると血が出ませんか」というセリフが印象的だったCMをご存じでしょうか。
私の口内は、リンゴどころかバナナをかじって出血する状態になっていて、歯を支える骨が溶けかけていることが判明しました。

食べ物が飲み込みにくくなり、睡眠中に涎で枕が汚れる始末…。車で帰ってくる夫が心配で寝つきが悪く、眠りも浅い日々が続きました。

だんだんと、言いたいことが言葉として表れにくい状態にもなっていきました。
40代でいわゆる「フレイル(介護が必要になりやすい状態)」に陥りかかけていることはもう、明らかでした。
周囲の意見を聞き入れる姿勢を貫いたら、身体はぼろぼろです。

②大切な人助けられなかったことで追いつめられた心

こうした身体の状態でも、夫と一緒にいると本当に楽しかった。
「家で待ってくれているから頑張れる」という言葉が嬉しかった。

多くの人に慕われる夫と一緒にいることが誇らしい、そういう気持ちでいっぱいでした。
短い時間でも笑いの絶えない会話で盛り上がり、穏やかな関係を保ちながらの平穏な日々でした。

その生活が崩壊したのは12月の寒い日でした。

夜中に帰宅した夫の呼び声で目を覚まし、階下へ降りていきました。
夫はトイレの床に座り込んで一人では立てなくなっていました。

「救急車を呼ぼうか」と言うと「いらない」と返事。
「足を揉んで」とお願いされ、しばらく冷えた足を揉み続けました。
寝たのかなと思ったところで、なかなか温もってこない足元をくるみ、布団をかけて、自分も隣で休みます。

小一時間過ぎた頃、かすかなうめき声と体の動きを感じました。
飛び起きて、電気をつけると夫の顔色は真っ白、呼びかけてもほとんど反応がありません。

「帰ってこないかもしれない!」心臓がはねあがりました。

近隣に家がなく、義両親は別棟で休み、耳も遠いため、大声を出しても助けを得るのが難しい状況です。
心肺蘇生をしたい。
でも、救急車を呼ぶために電話をしないと…。
入ってきてもらうために家の門扉や入り口の鍵を空けるには、夫を残して一瞬その場を離れなければならない…。
迷っている暇はありません。

救急車が到着して、「点滴の針が血管に入った」ことにほんの少し光を見ましたが、2時間後にその光は完全に消えてしまいました。

なぜ夫が応答できているときに救急車を呼ばなかったのか、その判断をしていればこんなことにならなかったのではないか…。悔やんでも悔やんでも悔やみきれないほどの後悔で、息が詰まりそうでした。

咄嗟に、一度目の結婚のことが頭をよぎりました。
仕事では、学生に「人の心に寄り添うこと」を教えてきたのに、当時のパートナーの心には全く寄り添えていなかった…。
二度目は自分の身体の管理もおろそかで、夫の健康な身体の維持にまったく貢献できなかった…。

学んできたことを、本当に必要なところで使えず、ただの机上の空論にしてしまった…。
いったい、何のために時間を費やして勉強してきたのか…。
全く役に立たなかった…。
人の手本になるなどと、どれだけ高飛車で傲慢な考え方をしていたのか…。

怒り、悲しみ、悔しさ、やるせなさ、激しい罪悪感。
冷たく重い感情が次々と浮かんで、心が張り裂けそうでした。

積み上げてきたプライドは瓦解。
一度ならず二度までも、家族として私を選んでくれた大切な人を支えられなかった。
私は人をダメにする呪われた存在なんじゃないか・・・。
計り知れない後悔と悲観に打ちのめされそうでした。

こんな役立たずは生きていても仕方がない…。
耐えても頑張っても駄目だ…。
もう死にたい…。

思いつめるうちにみるみる痩せていきました。

①食べるための職探し

相続のことでひと悶着があり、舅には心無い言葉をかけられ、追われるようにお寺を出ていきました。
10年も厭世的な生活をしていましたから、再び社会に出て働くことには大きな不安がありました。

看護師や保健師の資格があるとはいえ、20年以上も現場を離れていますし、何よりも夫の死によって沸いてしまった「自分は人の役に立たない」という感覚が全く拭えていない状況でした。

本当に、「死んでもいい、夫を追いかけたい」と思っていました。ただ、死ねなかった…。

楽しそうに仕事をして、人生を駆け抜けるように逝ってしまった夫が私をこの世に残したのには、何か意味があるのではないか。
いや、自分が死ぬということに恐怖があるのではないか。
それを隠そうと、一人残された人生に一所懸命意味を見出して、自分を正当化しようとしているのではないか。
しばらく、いろんな考えが浮かんでは消え、葛藤が続きました。

そんな中で見つけた働き口としての心療内科のクリニック。
面接は穏やかに思えました。
パートを希望しましたが、ぜひ正規職員で、との申し出を受け、就職が決まりました。

疲弊しているところに「正規職員」というのは甘美な誘いでした。
自分の根っこにある承認欲求を、十分に刺激されていたと思います。

②怒鳴られる続ける恐怖

仕事を開始した直後から、身体の退化に愕然としました。電話で聞いた内容が覚えられず、メモが取れないのです。
説明しなければならない事も抜けて、言葉足らずになってしまうこともありました。

こうした自分の至らなさで気持ちが沈むことは確かにありました。
しかし、勤め始めてからの驚きと戸惑いは、それだけではありませんでした。

面接の時とは打って変わった医師の豹変ぶりに、震撼しました。
気に入らなければ、自分の妻を私の目の前で土下座させて頭を押さえつけ、足蹴にする。
それを庇おうとすると「なぜ、庇うのか」と怒鳴られる…。

ある時は「スタッフの〇〇(私の名前)の仕事が遅いから、僕は診察ができずにいる。待たされて文句があるなら〇〇に言ってくれ」と診察室の中からマイクで、待合室中に聞こえるように言います。

聞いた瞬間、医師から攻められる怖さ、悲しさ、やりきれなさで気持ちが萎え、できない自分がもたらす異常な緊張感で身体は冷え切り、がちがちになっていました。

心臓が痛くなるほどの衝撃は、まだ喪も明けず、癒えない傷に塩を刷り込むような「言葉」の攻撃を受けたことでした。

「俺の仕事を増やして、お前の夫みたいに俺のことも過労死させるつもりやろ!」

母に安定した仕事に就くことを刷り込まれていましたから、「石の上にも三年」くらいの気持ちで、これまでの仕事はこなしてきました。

しかし、初めて

「耐えられない」

と思いました。
毎日、お腹を下すようになり、益々痩せていきました。

それまでに、何度となく退職したい旨を告げても引き止められていました。
引き止められるときは、医師とその妻、夫婦そろって懐柔してくるのです。
「ここにいれば、役に立てる」そう思わされてはとどまったのです。
まさに「飴と鞭」。
・・・DVの構造と同じです。

③「逃げた」解放感と罪悪感のせめぎ合い

ある朝、まだ診察前の時間に「本来受診するはずだった患者が受診したくないと言っている」という電話を受けたことを報告しました。
「なぜ受診するように説得できないのか」とすごい剣幕で怒鳴られます。

しばらくして、恐る恐る開院します、と告げると

「お前、帰れ!いらん!」

咄嗟に、チャンスだと思いました。
ロッカーのものはすべて持ちだし、できるだけ物音を立てずに裏口から出ていきました。

駅に着いたら涙があふれてしまいます。

「もう逃げてもいい、逃げてもいいのよ」

何度も自分に言い聞かせました。
その後、数分おきにかかってきた夥しい電話には、一切応答しませんでした。

退職届は郵送し、退職後に受け取る書類の到着を待ちましたが、ほったらかされて2か月。
無保険状態です。
社労士に連絡することでようやく手続きが済み、その職場との縁が切れました。

怒鳴られ続けて心が疲弊していても、無保険で受診さえままならぬ、ひたすら家にこもった日々。
人生で初めての“逃げる”という選択は、安堵すると同時に、生活の安定を守れずに耐えられなかったことで再び罪悪感を植え付けられてしまいました。
そう、母の言いつけを守れなかった罪悪感です。

「弱い人間だ。まともに仕事ができない。やっぱり役に立たない…」

その後も小さな試練が続きます。

大手の会社が経営するデイケアで派遣スタッフとして勤務しますが、1年もたたないうちに会社の都合で派遣を切られます。
派遣会社を通すよりも直雇用の方が、会社としては人件費が安く済みます。
免許の有無とか現場での勤務態度などは、経済重視の会社には関係がなく、突然仕事を切られる理不尽さを体験しました。

その後、世界的な感染症の流行で、保健所で電話相談の業務に就きます。多くの人が働きに出られない状況の中で、仕事があることは幸せなこととはいえ、脅されて、数々の暴言も浴びます。

不思議なもので、不安や恐怖をいろいろな形で経験することによって免疫もついてきたのでしょう。
耳元で怒鳴られるときは受話器を離して、苦笑いしながら聞くくらいのことが時々できるようになっていました。
時々萎えそうになりながらも、気遣ってかけてくださる優しい言葉は本当にありがたく嬉しいものでした。

こうして、職場を転々とするうちに、夫の他界から数年が経過し、不安や恐怖、身体の不調、大小さまざまな試練によって受けた傷がほんの少しふさがってきた気がしました。
「時間薬」の効果もあったのだと思います。

若かった時のように頑張るのではなく「自分のしたいことをしよう」
新たな学びを求めるようになっていきました。

「自我と対峙」すること
これが自分のしたいこととして浮かび上がってきました。
「変わりたい」と思ったのです。

最初は、あまり思い出したくなかった、奥底に埋め込んでいた過去を掘り起こします。
不安や恐怖に支配され罪悪感一杯に過ごしているかと思えば、一転して勢いに乗り、自分は思い通りに進んでいるという万能感に浸る日々。
そして、また気持ちが落ちて、上がって…と何と振り幅の大きく安定しない自我を育んでいたことか…。

そして気がついたのは、友達にも、同僚にも夫にも「相談」することができていなかったことです。
相談して否定されることが怖くて「助けて」が言い出せない。その代わりに理論武装して、自分の問いは自分で答えを出さなくてはと思い込み、頑張ることで自分を縛りつけていたことがわかりました。

過去を変えることはできなくても、過去の捉え方を変えることで、今の気持ちも変わっていく。
あの時、私は本当はどうしたかったのかにフォーカスすることで癒していくことができる。
あるメソッドに出会って自分と向き合い、一つ一つ、自分のヒストリーの捉え方を変えていきました。

心がすーっと軽くなる。身体が温かくなる。

そんな感覚を味わいました。

生きていてもよかったんだな…。

自分のヒストリーを眺めてみると、笑うことを取り上げられ、人の顔色を窺い、言いたいことが言えず、自分を表現するのがうまくなかったことがわかりました。

内面を見つめるというのは、辛さとしっかり、丁寧に向き合う作業に他なりません。
「変わりたい」気持ちが、辛さと向き合うことを後押ししたと思っています。

自我との対峙は、浄化のプロセスでもあります。
自分自身の奥底に根を張ってがちがちになった心をほぐして清らかにしていく。
そうすると、ひらり、と悩みを飛び越えることができる。
それを繰り返していくと、だんだんと心が澄み渡っていきます。
そうなって初めて他者の心にもに寄り添えるようになる、そう実感しています。

この、長い長い話に最後までお目通しくださった方にも、何らかのお悩みがあるのでしょうか。
ゆっくりお聞かせいただけるのならば、悩みを飛び越えるお手伝いをさせていただきたい。
心からそう思っています。